出エジプト記第20章12節 エフェソの信徒への手紙第6章1節~4節
人は交わりに生きる存在として造られました。誰もが生活の中で個々の交わり、多様な関係性を持って生きています。多くの場合、私たちは望まない関係であれば、自分で関わる人を選ぶことができます。人間関係を自分で取捨選択することができると思っています。しかし、実はそうではないのです。私たちを取り巻く人との関わりは、神さまから与えられた物なのです。すべての人は、父なる神によって与えられた隣人なのです。親は生まれてくる子を選べませんし、子どもはどの親の元に生まれるかを選ぶことはできません。親子という関係も神さまから与えられているのです。神さまは「父母を敬え」と命じられます。この戒めは「神さまと私」の関係を映し出すものであり、また、親子関係に留まらず隣人との関わりの基礎ともなっている戒めです。私たちは、両親との関わりを通して神さまとの関わりを学び、経験するのです。
「父母を敬う」ことは決して簡単なことではありません。尊敬できない親、心ない言葉を投げかける親もいます。「主にあって」とあります。主の十字架の下でこそ、私たちはこの戒めを聞くことができるのです。「主にあって」とは「主に救われた者として」です。 子を怒らせないというのは、機嫌をとるのではありません。抑圧的になって、子どもに怒りを芽生えさせてはいけないというのです。夫婦関係も親子関係も愛によって成り立つと考えられていますが、その愛が自分を喜ばせるための愛になってしまうことがあります。しかし、どんなときも「主がしつけ諭されるように」子どもたちに接するように言われています。主は御言葉によって弟子たちをしつけ諭されました。両親は神さまの愛を子どもに伝えるために主がしつけ諭されるように、育てるのです。救われた者が救われた人生を神の国に仕えるために生きることができるように、子どもたちを教育するのです。