詩編第34篇2節~15節 (旧864頁) エフェソの信徒への手紙第5章6節~11節 (新357頁)
パウロは「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(5:6)と呼びかけます。むなしい言葉とは、「中身のない言葉」「実りのない言葉」です。それは、わたしたちを神さまから引き離し「誤りに導こうとする悪賢い人間」の言葉だからです。神さまに背くようにとそそのかすのです。神さまは悪や不義をそのままにはされません。神さまに背いて不義を行う「不従順な者」(5:6)をお裁きになります。しかし、その裁きはキリストによって新しい意味を持つようになりました。神の怒りによる裁きから、神の憐みによる救いへと変えられたのです。キリストによって過ちと罪を犯していた者たちは永遠の命に生きる新しい道をいただいたのです(2章)。 キリストに捉えられ、命に至る新しい道を歩み始めた者たちは「光の子」であると言われています。自らが光源となって輝くのではありません。真の光であるキリストの輝きを受けて輝くのです。以前は「闇の子」であったのに、主によって「光の子」とされたのです。 「光の子として歩む」(5:8)とはどういうことでしょうか。それは、光の子とされた「招きにふさわしく」(4:1)歩むことであり、「神に愛されている子供」(5:1)として、キリストの愛によって歩むことです。光の子とされた者は、キリストの光を受けて自分が光り輝くだけではなく、その光によって他者を照らし、命の光を分け与える、光の源を指し示すのです。 光の子とされてもなお、闇の誘惑は付きまといます。誰一人、例外はありません。だからこそ、わたしたちが自分の中にある一切をキリストに委ねる必要があるのです。主の前にすべてを注ぎだす時、わたしたちの中にある不純物、不義がキリストによって取り除かれます。闇との決別です。わたしたちの内にある暗闇を注ぎだすなら、キリストはそれすら光に変えてくださるのです。