詩編第33篇1節~7節 (旧863頁) エフェソの信徒への手紙第5章12節~20節 (新358頁)
「暗闇の業」についての教えと、それに対するクリスチャンの生き方を説いています。まず、パウロは、「暗闇の業」とは単なる極悪な行為ではなく、普通に行われている悪い言葉や無慈悲さ、怒りといった行為を指すと説明しています。これらの行いは、キリストを知らなかった以前のわたしたちにとっては普通のことでした。しかし、神さまから見れば「闇の子」による行動であり、光の子が目指すべきものとは対照的です。そこで、パウロはこれらの行いを「明るみに出し、光で照らしなさい」と勧めています。続いて「光」と「暗闇」の対比を通じて、クリスチャンの目覚めについて語ります。闇の中にいても、光に照らされて暗闇の恐れから解放されるように、キリストによって照らされることで、クリスチャンは暗闇から光の中へと導かれ、目覚めることができるのです。神さまを信じるということは、目覚めるということなのです。また、礼拝についても述べられています。礼拝の中で詩編や賛歌を通じて互いに語り合い、主に向かって賛美することで、神の御心を知り、生きる力を得るのです。礼拝は単なる儀式ではなく、キリストの救いの喜びを表現する場であり、暗闇に満ちた世界に光をもたらすものです。さらに、パウロは「時を用いろ」と言いますが、この「時」は機会を逃さないことを指すのではなく、神の計画が進行している「神の時」を意味します。クリスチャンは、この神の時に従って行動し、礼拝を通じて神の意志を悟り、暗闇に囚われることなく、闇の子に逆戻りすることなく、光の子として歩み続けることができるのです。後に、聖霊の満たしと礼拝について語っています。悪い時代を生き抜く秘訣は御心を知ることであり、御心を知ることができるのは礼拝であるというのです。礼拝においてキリストの御心を知ることができ、生きる支え・生きる慰めをいただいて、生きる力に満たされるのです。どんなに悪い時代であっても、どんなにこんなんな人生であっても礼拝がわたしたちを生かすのです。