申命記第6章10節~15節 (旧291頁) エフェソの信徒への手紙第5章21節~28節 (新358頁)
「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい。」(5:21)という言葉はこの後に続く、夫婦、親子、奴隷と主人の関係を貫く信仰生活の原則です。ここで記されている「仕える」は、「奉仕」とは異なります。この「仕える」には「従う」「身を下に置く」という意味があります。誰しも、仕えるよりも人を従わせたいと思うものです。人の下に身を置くよりも、人の上に立ちたいと願うのが普通でしょう。しかし、ここでの「仕える」は世における上下関係や、主従関係とは違います。相手の言いなりになることでは無いのです。 最初にお伝えしたように5章21節の言葉は夫婦だけではなく、親子、奴隷と主人という当時の社会を形作っていた家庭における関係性すべてを貫く原則です。ですから、22節は妻だけが夫に仕えることを強いられているのではなく、25節では夫もまた、キリストがなさったように命がけで妻を愛することが求められているのです。キリストにおいて「仕える」ことと、「愛する」ことはイコールなのです。 私たちはキリストを頭とする一つのからだ(教会)です。教会にあって「互いに仕え合う」ことを学んでゆくのです。他の誰でもなく、キリストの下で仕えるのです。御子は父なる神に仕えるように罪人に徹底的に仕えてくださいました。その極みが十字架です。私たちは仕えることでキリストの憐みと救いを指し示し、仕えられることでキリストの究極の愛を知るのです。キリストとの関係性を土台として教会生活があり、家庭生活が形成されます。そして、仕え合う関係性は教会の中にとどまらず、社会へと及んでいくのです。私たちは罪赦された者ですが、しかし、罪人でなくなったわけではありません。ですから、失敗もあります。仕えているつもりでいて、見返りを求めることもあります。理想のクリスチャン像、夫婦像からは程遠いかもしれません。それでも、繰り返し主の下に立ち帰ります。主はその歩みを励まし、喜んでくださいます