エゼキエル書第11章19節 (旧1309頁)
エフェソの信徒への手紙第4章1節~6節 (新355頁)
パウロは自分のことを囚人と呼んでいます。実際、彼はキリストの福
音を伝えたために獄につながれていたのですが、パウロが自らを囚人と
呼ぶのは、自分が置かれた状況を事実として述べる以上の意味がありま
す。イエス・キリストに捕らえられているという意味です。
エフェソの信徒への手紙は「教会とは何か」ということが大きなテー
マとなっています。3 章までは、神が救いのご計画をキリストを通して、
教会を通して実現なさるということが記されていました。4 章からは、
教会に属する者がどのように生活したら良いのかと行くことが書かれ
ています。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさ
い」(4:1)。この「歩み」は日々の営み、生活のことですが、単なる衣食
住のことではありません。具体的な目的意識を持って日々を営むこと、
生きがいとも言える、そのような歩みです。神に栄光を帰する生活、教
会においてキリスト証しする営みへと召されているのです。その具体的
な歩みが 4 つ、挙げられています。
「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって
互いに忍耐しなさい」(4:2)。「一切高ぶることなく」は直訳すると「謙
遜」です。謙遜も、柔和も、寛容も、すべては「愛をもって忍耐する」
ことに集約されます。謙遜、柔和、寛容、愛をもって忍耐することがど
こで行われるのか、それは、教会です。だから、「平和のきずなで結ばれ
て、霊による一致を保つように努めなさい」(4:3)と言われているのです。
「きずな」にはほかに、「帯」とか「共に結び合わせるもの」という意味
があります。教会はキリストの身体です。わたしたち一人一人はその一
部分です。それならば、体の部分を繋ぎ合わせる帯、靭帯があるのです。
それが、「平和のきずな」と呼ばれています。神がお与えになる平和です。
一団となって神の国を目指す群れである教会は、神の愛によるきずなで
結ばれて、聖霊によって結び合わされています。