詩編第36篇6節~10節 (旧868頁)
エフェソの信徒への手紙第3章14節~19節 (新355頁)
「ひざまずいて祈ります」(14)とあるように、ここからパウロの祈り
が始まります。イスラエルの人が祈るときには立って祈るのが一般的で
した。ひざまずいて祈るのは特別の思いがあったのでしょう。自分を低
くして祈る一方で、「御父」という呼びかけに親しみと信頼の思いがにじ
み出ています。放蕩息子の父親のように、無条件で受け入れ、愛してく
ださる父なる神さまへの呼びかけです。
この祈りは、聖霊、信仰、愛が中心となっています。この三つの事柄
の根底には神の恵みの豊かさ、愛の豊かさが溢れています。「内なる人」
は精神のことではありません。「外なる人」は恐らく、私という人間の核
とは言えない部分のことでしょう。人種、社会的肩書、立場、学歴、容
姿など。対して内なる人は、終末、裁きの日に神の前に立つ「わたし」
のことです。信仰によってわたしたちの中にキリストが住んでくださる
とき、内なる人が強くされます。キリストがわたしたちの中に住んでく
ださるなら、わたしたちは愛による生活に押し出されていきます。キリ
ストによって生きるようになるからです。キリストが住んでくださる、
それは、キリストの愛が草花の根のようにしっかりとわたし自身を立た
せ、生かしてくださるからです。愛に根ざして立つことは信仰によりま
す。信仰自体、神からの賜物であり、聖霊の力です。パウロはエフェソ
の人々が愛に根ざして立つために祈ります。それが神の業に参与するこ
と、キリストのからだである教会の営みだからです。
他方でパウロは神の愛を祈り求めているのではありません。前述の御
言葉にあるようにそれはすでに示されています。必要なことは、人々が
その豊かさを理解することです。神の愛を知ることによって、神との愛
の交わりを喜び、キリストに信頼して、愛に根ざした生活を求め続ける
ことが出来るのです。神は際限なく罪人を愛し、無限に赦してくださる
からです。赦された者は計り知れない神の豊かさに満たされるのです。