横浜中田教会 説教要旨 2024年7月21日

詩編第36篇6節~10節 (旧868頁)

エフェソの信徒への手紙第3章14節~19節 (新355頁)

「ひざまずいて祈ります」(14)とあるように、ここからパウロの祈り

が始まります。イスラエルの人が祈るときには立って祈るのが一般的で

した。ひざまずいて祈るのは特別の思いがあったのでしょう。自分を低

くして祈る一方で、「御父」という呼びかけに親しみと信頼の思いがにじ

み出ています。放蕩息子の父親のように、無条件で受け入れ、愛してく

ださる父なる神さまへの呼びかけです。

この祈りは、聖霊、信仰、愛が中心となっています。この三つの事柄

の根底には神の恵みの豊かさ、愛の豊かさが溢れています。「内なる人」

は精神のことではありません。「外なる人」は恐らく、私という人間の核

とは言えない部分のことでしょう。人種、社会的肩書、立場、学歴、容

姿など。対して内なる人は、終末、裁きの日に神の前に立つ「わたし」

のことです。信仰によってわたしたちの中にキリストが住んでくださる

とき、内なる人が強くされます。キリストがわたしたちの中に住んでく

ださるなら、わたしたちは愛による生活に押し出されていきます。キリ

ストによって生きるようになるからです。キリストが住んでくださる、

それは、キリストの愛が草花の根のようにしっかりとわたし自身を立た

せ、生かしてくださるからです。愛に根ざして立つことは信仰によりま

す。信仰自体、神からの賜物であり、聖霊の力です。パウロはエフェソ

の人々が愛に根ざして立つために祈ります。それが神の業に参与するこ

と、キリストのからだである教会の営みだからです。

他方でパウロは神の愛を祈り求めているのではありません。前述の御

言葉にあるようにそれはすでに示されています。必要なことは、人々が

その豊かさを理解することです。神の愛を知ることによって、神との愛

の交わりを喜び、キリストに信頼して、愛に根ざした生活を求め続ける

ことが出来るのです。神は際限なく罪人を愛し、無限に赦してくださる

からです。赦された者は計り知れない神の豊かさに満たされるのです。