詩編第8篇2節~10節 (旧840頁) エフェソの信徒への手紙第2章1節~6節 (新353頁)
教会の体をなす一人一人に与えられた、キリストの救いについて語られています。教会に連なる者たちの目を救いへと向けさせるために、パウロは、なぜ人間が救われる必要があったのか、人間の罪の現実を、ビフィフォア・アフターのように「救われる以前の姿」と、「救われた今の姿」で比較しながら示してくれています。 誰かの失敗やあまり褒められないような態度を見て、「自分はあの人よりはマシ」と思うことがあります。罪の状態についてもそうです。「わたしは神さまから見たら罪人だけど、あの人よりはマシだろう」と、考えるのです。もしかしたら、防衛本能のようなものなのかもしれません。自分は誰かより少しでも優れた存在でありたい。あるいは、同じ罪人という部類に入るにしてもちょっとでもマシでいたい。そんなプライドがあるのではないでしょうか。罪人に優劣などありません。誰がより罪深くて、誰がよりまともだなんて言えないのです。優劣があるなら、救う必要のある人とない人という区別が出てくるでしょう。「わたしはマシな方だから、まだ救いは必要ないな」なんてことになるかもしれません。罪とは、神さまとの関係の破れのことなのですから。 でももう、それは過去のことだとパウロは言います。かつては「過ちと罪のために死んでいた」が、今は全く違っている、信仰によって生きているというのです。死んでいた者が、命を吹き込まれて新しく生かされているのです。神さまから見てキリストと共に生きるわたしたちは劇的な大転換をしたのです。そしていま、キリスト共に神の子として天の御座をいただいているのです。それはつまり、キリストと共に神さまの御業を担う責任を与えられているとも言えます。わたしたちは、神さまによって新しくされたことを喜びつつ、この喜びの場に一人でも多くの人が集うことができるよう、神さまの御心を求めて、善い業に遣わされて参りましょう。