横浜中田教会 説教要旨 4月28日

詩編第8篇1節~10節

エフェソの信徒への手紙第1章1節~6節

 

 本日の箇所はパウロの祈り、彼がエフェソの人々のためにささげた執りなしの祈りが記されています。「祈りの度に」とあるようにパウロは時々思い出したように祈るのではなく、いつも自分が宣教した教会の人たちのために祈りをささげていました。そしてこの箇所ではエフェソの人々が信仰を与えられたこと、そして信仰から愛の業に励んでいることへの感謝の祈りをささげていたのです。
 感謝の言葉から祈りを始めるのは、決まり文句だからではありません。パウロは3〜14節に記した神のはかり知れない救いの計画と、それによって与えられている希望を思い起こして「こういうわけで」15節からの祈りを始めているのです。
 パウロがエフェソの人たちのために祈った最初のことは、「神を深く知る」こと、そしてそのために「心の目が開かれる」ことでした。わたしたちは肉の目では、神の祝福を見つめることも、神ご自身をよく知ることもできません。だから、神ご自身によって心の目を開いていただかなくてはならないのです。
 心の目を開き、神の御業を見ることができるようになるためには、聖霊の光を注いでいただかなくてはなりません。そうしなければ、神を知ること、認識することもできないのです。
 カメラのシャッターを切るように、心の目を開いて光を注いでいただかなくては、何もわからないのです。わたしたちに信仰が与えられているのも、神に感謝と賛美をささげることができるのも、一方的な恵みです。神の御顔がわたしたちに向けられて、わたしたちを照らしてくださるからなのです。わたしたちの人生は神を知る歩みです。神を知れば知るほど、驚きと感動で目が離せなくなるでしょう。聖霊に照らされて、神の招きによる希望、御国の実現を見る日を待望しつつ、その日が早まるのを願いましょう。