聖書 イザヤ書第49章1-6節 フィリピの信徒への手紙 第2章12-18節 説教題 「世にあって星のように輝く」 杉山悠世 牧師
<説教要旨>
パウロはフイリピの教会の人々の信仰や働き、才能を称賛して「星のように輝いている」 と言いたいのではありません。すべての人を照らす真の光(ョハネ 1:9)として世に来られた神の子キリストによって光り輝く事ができるのです。キリストの霊、聖霊が宿ってくださり、福音を私達自身にもたらされた喜びとして受けとる事ができます。私達の内に希望の光が灯されます。福音を松明として、曲がった時代をまっすぐに主の道、命の道を歩んでゆく事ができるのです。神さまは闇に覆われた世の中に信仰の灯を灯す私達をご覧になり、一人一人を光り輝く者として見てくださるのです。しかし、この輝きは私達自身の努力や才能によって得た輝きではなく、与えられた輝きなのです。星々が太陽の光を反射して輝いているように、主の栄光を反映して光を放っているのです。
一人一人の放つ輝きは小さいかもしれません。けれども、神さまは主に倣った歩みを続ける信仰者の歩みをご覧になり、「愛する子」と呼んでくださいます。神の子とされた者たちをパウロは「従順」と表現します。従順とは、聞いて応答する事です。神さまの呼びかけに応える事が「命の言葉をしっかり保つ」事でもあります。口語訳聖書は「堅く持つ」と訳しました。私達の手を掴んでくださる主の手をしっかりと、握り返すのです。そして、主に従って「とがめられるところのない清い者」となるのです。パウロはフイリピの人々との再会を願いつつも、殉教の死を予想していました。だから、「たとえわたしの血が注がれるとしても」と言います。福音の前進のためにわが身をささげる事になっても、同じ思いで礼拝をささげ、主に在ってーつとされた兄弟姉妹との交わりが与えられている事をパウロは喜んでいます。悲惨な現実が目の前に横たわっていても、同じ救い主に結ばれて、救いの完成の日を共に待ちわび、共に神さまを礼拝する仲間がいる、それが喜びなのです。