聖書 ホセア書第6章1-3節 フィリピの信徒への手紙 第1章20-26節 説教題 「キリストを生きる」 杉山悠世 牧師
<説教要旨>
「わたしにとって。生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(21)パウロにとって生きるか死ぬかは問題ではないのです。彼は獄中にいます。いつ殺されてもおかしくない状況です。そのような緊張状態の中から出て来た言葉です。しかし同時に、信仰者として生きるとはどういうことかを見つめた言葉でもあります。自暴自棄になっているわけではありません。苦しい現実から逃れるために死にたいと願っているのではないのです。パウロにとって肉体の死は命の終わりではなく、新しい旅立ちなのです。「地上を去って」神さまの御心が行われ、ご支配が満ちている天の国に行く、すると父なる神様の右に座しておられるキリストが共におられるのです。パウロはキリストにまみえる期待をもって、キリストと共に居たいと熱望しているのです。それは決して死へのあこがれや、生きることへのあきらめではありません。だから、フィリピの教会の人たちのためにも生きなければならないとの決意を持ってこう語っています。「だが、他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(24)
キリストと共にいることを、罪との戦いのない神の国に移されることはパウロの願いであり、彼にとっての益なのです。他方で、「肉において生き続ければ」キリストのために「実り多い働き」を続けることが出来るのです。だから、生きることと死ぬことの間で板挟みになっているのです。最終的には自分の願いではなく、フィリピの教会の人たちのために地上で「実り多い働き」を続けることを選びます。たとえ今置かれている状況が悪くても、生きているということはつまり、神様がこの命を用いて、自分を用いてなされる務めが残っているからです。パウロは生き続けることが神さまの御心だと受け取ったのです。