聖書 イザヤ書 第32編17節 フィリピの信徒への手紙 第1章1-11節 説教題 「義の実」 杉山 悠世 牧師
<説教要旨>
この手紙は、「わたしはキリストを主人とする奴隷です」という自己紹介から始まっています。「喜び」を伝えるのに、「奴隷」だなんておかしな話かもしれません。けれども、キリストの僕だからこそ、過酷な獄中生活であってもパウロは喜ぶことができるのです。恐れや不安に囚われていてもおかしくない状況で、しかし、パウロは「自分はキリストに在って自由な者、解放された者である」と言い表しているのです。
彼は主が共に生きて働いておられることを、フィリピの教会の事を思い起こす度、一人一人のために祈る度に嬉しさと、確信をもって味わったのです。そして、神さまの救いのご計画は、今なお遂行され、「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」ことを確信しているのです。3-5 節では感謝を述べています。フィリピの教会の過去と現在の信仰生活についての神さまへの感謝です。パウロは、フィリピの人々が自分と同様に「福音の交わり」の中にある事を思い起こしては神さまに感謝し、教会のために祈る度に喜んでいるのです。
「知る力と見抜く力」は深い洞察力や観察眼ではなく、神さまの御心を尋ね求めること、神さまのご計画に自分の思いを重ね合わせることです。神さまが望んでおられることを知ろうとするのです。キリストの十字架の贈いによって、「清い者、とがめられるところのない者」から程遠い存在であった私たちは、「清い者、とがめられるところのない者」、キリストの義を頂いています。だからパウロは「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」と、義の実を受けることができるようにと祈っているのです。パウロの喜びと信仰の核心に触れて、私たちも、私たちの間に起こっている神さまの善い業を見つめ、豊かな愛と、深い祈りへ、確かな信仰の歩みへと押し出されて参りましょう。