聖書 詩編 第88編2-19節 マルコによる福音書 第15章42-47節
説教題 「キリストの葬り」 杉山 悠世 牧師
<説教要旨>
イエスさまは一夜にして、弟子に裏切られ、最高法院に引き渡され、ピラトのもとで十字架刑による死刑判決を受けました。午前九時に十字架にはりつけにされると、昼の十二時から全地が暗くなりそれが三時まで続きました。そして、三時にイエスさまは息を引き取られたのです。弟子の裏切りから始まった一日が間もなく終わろうとしていました。何の妨げもなく進められたイエスさまの裁判と十字架刑による死は、神の御子の犠牲によって、罪びとを救おうとなさる神さまのゆるぎない御心を表すようでした。そんな一日の終わりが迫っている様子を、マルコは「既にタ方になった」(42)と告げています。
日没から新しい日が始まります。イエスさまが十字架にかかって死なれたのは安息日の前日でした。安息日にはいかなる労働も禁止されています。一方で、十字架で死んだ者の遺体を放置することは律法で禁じられていました。タイムリミットが迫っていたのです。
しかし、罪人の、しかも重罪人の遺体を引き取ろうとする人は誰もいません。誰もが死んだイエスさまとの関わりを持とうとしませんでした。そこにアリマタヤのヨセフがやってきて、自分の立場を顧みず勇気を出して遺体の引き取りを願い出ました。彼は、十字架の出来事を目撃して、「神の国を待望する者」としての働きに召されたのです。ピラトはイエスさまが短時間で死んでしまったことをいぶかしんで、確実に死んだことを確かめてから遺体を引き渡しました。ヨセフによって急ごしらえの葬りがなされました。そして、その様子をイエスさまに従ってきた女性たちも見守っていました。イエスさまが墓に葬られてすべては終わったように思えました。しかし、イエスさまの死と葬りは墓場で終わりません。復活へと続くのです。この後彼らが見つめていた命の終わりの入りロが、復活の主によって永遠の命の入り口に変えられるからです。