聖書 詩編第22編2-32節 マルコによる福音書第15章33-41節
説教題 「真の神の子」 杉山悠世 牧師
<説教要旨>
午前九時にイエスさまは十字架にはりつけにされました。十字架のイエスさまを見上げて、多くの人々が嘱り、侮辱的な言葉を投げかけていきました。取り囲む全ての人から蔑まれ、疎まれ、見放されたのです。
イエスさまにとって最も苦しかったことは、父なる神さまから見捨てられたことでした。父と子の関係から罪人の代表として、神から最も遠い存在として打ち捨てられ、愛する親子の関係が断絶されてしまったのです。故に、もはや父とは呼ばず「わが神、わが神」 と叫ばれたのです。しかし、絶望の中でも、神との関係を切実に求め続けておられ たのです。
イエスさまの死と共に、聖所と至聖所を隔てる神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました(38)。それまでは年に一度、「贈いの日」に大祭司だけが入ることが許されていた至聖所の幕を神が裂いてくださったのです。たった一人のただしい人、イエス・キリストの贖いの血によって、誰もが神に近づくことを許されるようになりました。キリストの贖いいによって、神と人とを隔てていた罪の壁が取り除かれたからです。だから、イエスさまをキリスト(救い主)と受け入れ、信じる者は誰でも親しく、大胆に神に近づき、言葉を交わす(祈る)ことが出来るのです。罪なき神の御子がその命を犠牲として獲得してくださった救いだからこそ、私たちは安心して、感謝してこの救いの恵みを受け取ることが出来ます。神に見捨てられたとしか思えない絶望の中でも、「わが神よ、なぜ」と問い掛け続ける道を開いてくださったのです。
イエスさまがこのように息を弓は取られたのを見て、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」(39)と言いました。イエスさまが立派に、恐れることなく苦しみを耐え忍んで死なれたからではありません。顔をそむけたくなるような悲惨で残酷な刑に処されながらも、神を呪わず、神との確かな関係を求め続けたのです。私たちも「イエスの方を向いて」(39)、十字架の主とその救いの恵みを仰ぎ続けましょう。